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食の研究は“基礎から応用へ”ではなく“応用から基礎へ”が正しい

阿部 啓子
東京大学 名誉教授
東京大学大学院農学生命科学研究科 特任教授

食品研究は概して応用を指向した各論(ケース・スタディ)からスタートします。しかし多くの研究は基礎に踏み込むことなく各論で終わってしまいます。もし基礎へ踏み込めば、より大きな応用につながるであろう研究がたくさんあります。その実例こそ、農芸化学会の創始者で100年前、米糠から脚気の予防・治療に著効を示す物質(当時の名前はオリザニン)を発見され、ノーベル賞候補に推挙された鈴木梅太郎博士のご業績です。もしあの時、「脚気の特効薬を見つけた、バンザイ」と言ってしまえば、事はそれで終わってしまったでしょう。ところが博士は、オリザニンの効果・効能の本質を解き明かすべく、膨大な基礎研究に踏み込み、それが生物の生命に必要不可欠の物質(現在のビタミン)であることを実証されました。この成果は、栄養学の革新、食糧政策の進展、ビタミン工業の創出といった高次元の応用に至ったのは、あまりに有名です。
ところで、食品の命は“おいしさ”です。私は自分の研究を味の研究という各論からスタートさせました。しかし鈴木梅太郎博士の研究歴を学ぶうちに、どうしても味の本質を究めたいと思うに至り、味の感覚(味覚)の根底を掘り起こす分子論の道へ歩を踏み入れました。より大きな“おいしさ”研究の応用を“私の食品科学”の集大成として・・・。


たべものの研究を志す若い学徒が、勉強のために教科書を開くと、そこにはたいてい基礎から応用へ向けて記述がなされているのに気付くはずです。第1章「食品の成分」、第2章「成分の反応と生成物」、第3章「食品の構造」といった基礎事項に始まり、後半になって「色・味・香り」、「加工と貯蔵」、「流通と消費」などの応用事項が出てきます。だから学徒たちは、研究でも“基礎から応用へ”という教科書的方向をとりがちになります。
食品や栄養の研究は概して応用を目指したケース・スタディ(各論)から始まります。これは歴史が実証するところです。しかし、各論に終始したのではこれといった成果(出口)が得られないのも史実です。産・官・学界は最近、“すぐに成果が出る応用研究”を奨励しています。が、それは間違いです。大切なのは“応用から基礎へ”です。深い基礎研究に踏み込んでこそ、より大きな応用、より広い出口が拓けると思うからです。実例があります。

食の研究は“基礎から応用へ”ではなく“応用から基礎へ”が正しい

約100年前、脚気予防の研究(各論)からビタミンの発見(普遍論)を拓き、大きな国策と産業に貢献した鈴木梅太郎博士の研究の歩みが、それです。
江戸時代から明治時代にかけて日本には脚気という恐ろしい病気が流行しました。日露戦争では20万人もの兵士がこの病気のために死んだといわれます。その原因は白米を食べるようになり、しかも激しい労働を行ったためです。鈴木博士は精米によって除去された米糠に脚気予防の因子があると考えました。事実、米糠中にオリザニンと名付けた有効因子があることを見いだしました。ここまでは各論(ケース・スタディ)です。もしこの時点で「脚気の特効薬を発見した。バンザイ」と言ってしまえば、事はそれで終わってしまったのかもしれません。しかし博士はその発見に満足せず、さらに研究に研究を重ね、オリザニンが生物にとって必要不可欠の栄養素であるという結論を得ました。
この普遍的物質にビタミンの名が与えられました。こうして、従来の4大栄養素(タンパク質、糖質、脂質、ミネラル)にビタミンが加わり、現行の5大栄養素学説が完成したのです。1914年にはノーベル医学生理学賞の候補にドイツ学派から推挙され、1943年には文化勲章を受章されました。
世界に先駆けて発見されたこの物質は現在ビタミンB1に分類されています。なぜこれが普遍的物質かといいますと、タンパク質代謝、糖代謝、脂質代謝、そしてエネルギー代謝をつなぐ中心物質であるピルビン酸の代謝に関わる酵素(専門的にはpyruvate dehydroxylase)の働きを活性化する鍵化合物だからです(図2)。ビタミンB1の欠乏はこうした多様な新陳代謝の不調を招きます。そして労働に必要なエネルギーの生産の道を閉ざします。その結果としての症状の一形態が脚気という病態だったというわけです。鈴木博士は、基礎研究に踏み入ったからこそ、より大きな出口すなわち日本の栄養・食糧面での国策の改革、ビタミン産業の創出などの成果を世に施しました。図1のモデルです。

博士と同時代に、池田菊苗という先生が活躍していました。旨味調味料L-グルタミン酸ナトリウム(MSG)の発見者で、近代食品工業の創設者としてあまりに有名です。その時、鈴木博士は「旨味の研究は私どもの方でやりたかった。洒落ではないがうまくやられた」と述懐されたそうで、“おいしさ”のことにも強いご関心をお持ちのようでした。博士の高弟の一人に櫻井芳人という東大教授がいらっしゃり、戦後間もなく「食糧化学」の講座を担当されました。そのご著書の中に「たべもので一番重要なのは“おいしさ”だ」という一文があります。著名な栄養学者のお言葉だけにかえって大きなインパクトがあります。これに啓発された私は、この講座に入れていただいた時から現在の「生物機能開発化学」研究室に移った頃にかけて、味の研究を始めました。あるトロピカルフルーツに存在する味覚修飾物質で、酸っぱいものを甘く感じさせる不思議なタンパク質の解明が目的の研究でした。これを分離し、X線結晶解析で構造決定し、甘味受容体とどのように結合するかを分子動力学シミュレーションで推定しました。が、こうした各論(ケース・スタディ)に満足できなくなった私は、鈴木梅太郎博士に倣い、“甘味の本質とは何か”を追求してみようと思い始めました。たどり着いたのが味の感覚つまり味覚という生物事象の普遍性を解き明かす道でした。
味には甘・酸・塩・苦・旨という5つの基本味があって、それぞれは、舌に存在する味蕾という組織の受容体によって感知されます。感知されると味覚という感覚シグナルが発生します。これが味神経を伝わって脳とくに大脳味覚野に達し、そこではじめて、甘いとか酸っぱいとか、さらには好きな味とか嫌いな味が認識されます(図3)。食べたものの味の種類や好き嫌いの判定は口腔という末梢器官ではなく、脳という中枢器官が行うのです。つまり食の研究は脳科学の領域に入り込みます。

食の研究は“基礎から応用へ”ではなく“応用から基礎へ”が正しい

ところで、私たちが慣れ親しむ甘味に話を限定しますと、おもしろいことがわかります。世の中には甘味物質が何十何百とあるのに、これを感知する受容体はただ1つなのです。私の研究室では、ヒトの甘味受容体の遺伝子を腎臓のHEKという細胞に導入し、タンパク質を発現させた培養細胞をつくりました。これを用いると、食品の甘味度を、カルシウム・イメージングという方法で、客観的に計測できます。ヒトの味覚をシミュレートしたバイオセンサーの創出です。人工甘味料を含めたいくつかの甘味物質にこれを適用し、それぞれが受容体のどの位置に結合して甘味感覚を発現するかを、すごく大変な実験でしたが、丹念にしらべたところ、それらが互いに違う位置に結合していることがわかりました。甘味受容体はたった1つで十分なことが、これでわかりました。未知の甘味物質の開発にも応用しています。未知のものの中には、万一、有毒なものがあるかもしれないので、官能検査は使えません。が、培養細胞ならば自由に使えます。また、しょ糖やサッカリンの甘味度を強めたり弱めたりする新物質の探索も行っています。
最近、甘味受容体が消化管とくに胃や小腸にも存在するという知見が出されました。これは、食べた物を消化し、吸収する上に、この受容体がどのように機能するかの研究につながります。私どもの研究室は、消化管が感知した甘味シグナルが脳に送られ、ホルモン分泌を促し、生体を調節していることを見いだしました。感覚は単に情緒的なものではなく、健康とも直接に関係しているようです。
かつて、私の恩師である荒井綜一先生は、食べものには栄養面での働き(一次機能)、感性面での働き(二次機能)、そして生体調節による病気予防の面での働き(三次機能)があることを唱え、国の内外の大きな関心を呼びました。私どもの研究は、一次機能と二次機能あるいは二次機能と三次機能の間に必然的な連動性があることを示唆します。こうした基礎研究を通じて、“食”というものの本質的意義を解き明かし、より大きな学術的・産業的貢献の途(図1)を拓くべく、現在、努力しているところであります。私の食品科学の集大成を目指しつつ・・・。

食の研究は“基礎から応用へ”ではなく“応用から基礎へ”が正しい

(2014年1月)

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